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立ち読み師たちの街

襤褸は着ててもロックンロール

「四十日と四十夜のメルヘン」をめぐる四つの感想(その3)

(前回の続き)『チラシ』内でも監視の目は強い。経営者ブーテンベルクは、植字工員には「動じない心が必要だ」などといって、抜き打ちで語りかけてくる。この声に動揺しては罰せられる。つまり機械のように働くことが求められている。さらにブーテンベルクは、密告制度を設け、工員同士に「保安委員会」なるスパイを放っているらしい。工員たちは疑心暗鬼に陥る。だが実は「保安委員会」なるメンバーはおらず、ブーテンベルク一人が黒幕としているばかりだ。そのうえ、彼は一台の印刷機に四人から八人の印刷工を配して熱心に働かせるが、その印刷機の重要げな「心臓部」とされているものは、タダの空っぽの箱だった。つまり中身は不在。
この二つの「グーテンベルク」の罠に対抗するようにして、個人的な仕事としての日記や小説、あるいは絵画が置かれると思う。
増殖
同じく増殖するにしても、チラシが工業製品だとすると、日記や小説は手仕事による。増えるペースではかなわない。そして「送り手」‐「受け手」の関係において、チラシが不特定多数に向けて発せられたものなら、日記や小説はあくまで個人的なもの。しかし「四十日」の語り手の日常においては、どちらもそのコミュニケーションの回路は失調している。日記は十全な機能を果たさない。小説は完成しない。チラシは届けられず捨てられる。あるいは、届いても「グーテンベルクのチラシを見ました」と新たに注文してくる客はいない。失調しているがゆえに、ますます数は増殖してゆく。
メルヘン『チラシ』の中では違う。『チラシ』の中での印刷物=チラシの広告効果はバツグンで、終盤にあの祝祭状況をもたらす。この工業製品に対するクロードの手仕事が「絵画」の制作だろうか。しかし「四十日」の語り手の小説執筆の動機同様、クロードの「絵描きになりたい」動機も驚くほど描かれない。本当に、絵描き志望という設定だったっけ、と読み返してしまうほど。
つまり、語り手の日常でチラシ‐日記・小説、メルヘンの中でチラシ‐絵が対応していることになるだろうか。さらに、語り手による日記‐小説の関係もある。このように、作中では様々なレベルでのネットワークが形作られている。
ネットワークとリズム
なぜこのような対応関係だとか、意味のネットワークが作中に配されるのだろう。そしてなぜそれが、読み解かれるのを待っているかのように読者に感じられるのだろう。私も以前不思議に思った。それは「四十日」だけではなくて、他のさまざまな作品にもいえる。対応関係というのは時に、いかにも作りものめいて見える。本当にそんなふうに象徴できるのか、「現実」はもっとそうじゃないだろう、という思いもしてくる。
「四十日」を再読しながらそういったことを、最近気にかかっていた、マンネリ、衝撃、リズム、文体、視線、物語、といった事柄と合わせて、つらつらと考えていた。さらに「新しい」というのはどういうことか、とも思った。少なくとも「四十日」は、古い感じはしない。では「新しい」とは何なのか。新しければいいのか。新しいからいいのか。逆に、古くさいとはどういうことか。瑞々しさと既視感、模倣、批判、批評、などなどがぐるぐると渦を巻いた。
そこで、先日リンクしたKUSFAの読書会報告の下のほうに出ていた後藤明生『挾み撃ち』のことを思いだした。たしか、この本は文芸漫談で過去にとりあげられていた
その回のすばる(2009年5月号)の記録を見ると、『挾み撃ち』の(というか後藤作品の)特徴として、「あるものとあるものを関係づける」ということが出てきた。「俳諧性」とも言われていた。
ちょっと開けたような気がしたので、書いてみる。たとえば毎日新聞の朝刊にはいつも俳句の紹介コーナー(坪内稔典「季語刻々」)があり、今日(2012年7月6日)の句はこうだ。「川を見るバナナの皮は手より落ち」高浜虚子
「かわ」と「かわ」の音の重なり。しかし、「川」と「バナナの皮」は本来、何の関係もない。ただそれを見ているはずの高浜虚子によって、関係づけられている。川を見る。バナナの皮が手から落ちる。だからなんなのか。まあ、おかしいといえばおかしい。
俳句には詳しくないけれど、ここではこう言えると思う。AとBを関係づけることで、何かが生まれる。手術台の上のなんとやらか。関係づけるのは「私」。だから生まれる何かには、それを面白いと思う「私」性がにじんでくる。「面白い」と感じるのは、あるパターンの認識だ。パターンの認識がなければ、そもそもそこに何かが「ある」、関係が「ある」ということさえ気づかない。「他に記すことなし」。
パターンは「私」が生み出すものでもあり、認識するものでもある。このパターン認識は、立場が違えば視線も異なるように(たとえばコンビニ店員と客、雇用者と使用者などなど)、固有のリズムをもっている。
このリズム(パターン認識)は、同じ人物の中でも時間の経過につれ変化する。年齢によって、体力によって、知識によって、経済状況によって、云々……。だから、過去の日記を読むと今とは違う発見がある。退屈だったはずの過去が、新鮮さをもって立ち上がってくる。
なぜ新鮮なのか。互いのリズムが異なるからだ。リズムの同調はマンネリを生む。しかし、ただリズムが違えばいいだけではない。俳句にもいいものと悪いものがある。どのような関係づけをするかに、取り合わせの妙がかかってくる。
「新しい」方法というのは、何かを関係づけるそのやり方が「新しい」ということなのだろうか。「チラシ」と「日記」に、あるいは「日記」と「小説」に対応関係を見る。見ようと思えば見える。しかし、見えないこともある。作者が用意していることもある。用意していないこともある。全体が一つの意味に収斂していくこともある。そうでないこともある。
全体が一つの意味に収斂していかない場合(一つのパターンに統合されていかない場合)、作中のそこかしこで、部分と部分が、蠢いているように見える。一つの星座ではなく、いくつもの星座を抱えた夜空全体のように。(私は星座というのは、星座表を見なければ関係づけることができないのだが)
一つのパターンに収斂されることのない部分と部分との蠢き、それはポリリズムだ。(その4に続く)
   ※
明日は七夕だというのに、今夜はこんな雨で、……。